人物百景 第17話は、白楽で週末だけ開く
Cafe 酒「にゃらや」の店主、稲増祐希さんにお話しを伺ってきました。
名前:稲増祐希
通称「にゃらさん」1988年、神奈川県生まれ。明治大学農学部卒業。
平日はIT企業の広報担当として働きながら、週末は白楽のCafe 酒「にゃらや」のオーナー兼店主としてお店に立っている。
〈聞き手 = 酒井 / 記事・撮影 =酒井・かもちゃん〉
足のサイズ | 24.5㎝ |
好きな作品 | ミッドナイト・イン・パリ |
コンビニでよく買うもの | オレンジジュース・麦茶 |
ポテチの好きな味 | のり塩! |
息抜きの場所は? | 銭湯・温泉 |
人生最大の買い物 | このお店づくりですね! |
100時間あったら? | よく寝て、よく休む |
1億円あったら? | カフェして、飲んだり、泊まったり、住んだりできるお店をつくる |
生まれ変わったら? | また人間が良いです |
この辺りでよく行くのは? | 白楽近辺をフラフラ歩いてます |
変わらない子供時代と、ものづくりの家系
酒井「まず、お生まれはどちらですか?」
「生まれは鶴見です、地元が鶴見で今もずっと鶴見に住んでいます。
小学校は旭小学校ですね、中学から私立に入って、東京の学校に行きました」
酒井「どんな子供時代でしたか?」
「それが久しぶりに昔の友人に会うと『昔と全然変わってないね』って言われるんです(笑)
結構、昔から一人で好き勝手やっているタイプなんですけど、人からは『意外と協調性もある』と言われるので、好き勝手やりながらも協調性もある子どもだったのかな~と。
カフェも色んなお客様に来て頂きますが、楽しくやってますしね」
酒井「自分の軸を保ちながら、他と共存できるってことですね!素晴らしい!」
「だから小さい頃から特定の仲良しグループとかはなく、色んなグループの人と仲良くなるタイプでしたね。
決まった友達とずっと一緒にいるのではなく、男女関係なく色々なグループと関わってきたと思います」
酒井「小学校の頃にハマってた遊びは?」
「小学校低学年は、花を摘んだり、どんぐりを拾ったりするのが好きでしたね。
高学年は手芸部に入ったので、自分のキャラクターを作って、フェルトでマスコットを作ってました。」
酒井「じゃあ、小さい頃から何かを作るのが好きだったんですね」
「そうですね、作るのは、すごい好きでした!」
酒井「家族構成は?ご家族はどんな仕事を?」
「私は一人っ子なんです。父は自営で配管工をやっていたので、にゃらやを工事するときも水道工事の部分は父にやってもらいました(笑)
普段は工場とかの大きな配管工事をやっていて、店舗の工事は初めてだったので、慣れていなくて色々散らかしていました。
母は結婚するまでは、演劇とかダンスを仕事としてやっていて、劇団に入っていたりもしたみたいです」
酒井「ものづくりのお父さんと、アーティスティックなお母さんから、にゃらさんが生まれたんですね」
「父方のおばあちゃんは自分と同じくらいの歳のときに小料理屋をやっていたそうです。
母方のおばあちゃんや兄も美容師やお店をやっていたり、一族商売家系なんです」
「中高は母の影響なのか、友達からも誘われたのがきっかけでミュージカル部に入って、その後大学は理系に進みました。
数学は出来なかったけど生き物が小さい頃から好きで、高校は生物とか化学が得意な方だったので、環境浄化に興味をもって環境問題を扱うならと思って、農学部に進みました。
化学系で実験続きの日々だったので、いつも白衣を着てましたね。
成績は落ちこぼれでしたけど」
自然と複業の道へ
「就職はリーマンショックの影響で就職氷河期だったので、落ち続けてしまい、途中で
『もういいや』とやる気を無くしてしまって…
卒業後は、2年くらいはフリーターをしていて、大学在学中に働いていたカフェと、その他のカフェもかけもちで働いていたり、川崎の地域紙を作るバイトも半年位していましたね。
ライターさんと一緒に取材に行ったり、写真を撮ったり、短い間だけどあまり経験できないことができたかなと思います。当時は休みがあまりなかったかもしれないです。
酒井「もう、毎日働くのが当たり前なんですね(笑)」
その後は、LEDで室内で野菜を育てる植物工場の装置を売っている会社に入社しました。
取材対応をしたりプレスリリースを書いたり、少し広報的な仕事をしていました。
ネットショップのメンテナンスとか、野菜をマルシェに売りに行ったりとかもしていました。
「でもその後、ITベンチャー企業に広報として転職したんですけど、未経験なことだらけだったり、上場直後で仕事もたくさんで忙しく、
毎日終電のような働き方が1年ほど続いたのかな、それはキツかったですね…
でも会社の規模が大きくなるにつれて、働く環境も良くなってきて、定時で帰れる日もありました」
『にゃらカフェ』の始まり
「定時で帰れるときもあって、少し余裕が出てきたときに、ご縁があった西荻窪にあるカフェを間借りして、毎週末カフェを始めたんです」
酒井「余白ができてくると、そこで何か入れたくなっちゃうんですね(笑)」
「大学卒業後も1年に1度は、イベントとして1日間借りカフェを行っていたので、メニューもなんとなくは出来てたんですよね。
にゃらやで出している、お茶漬けとかトーストとかケーキもその時からずっとあるメニューです。
お店の名前は『にゃらカフェ』でした」
酒井「ポップアップだったお店が、定着して週末間借りカフェをやるようになったんですね。」
「イベントだと1日で終わるし、友人も来てくれるので盛況のままにどうにか出来ちゃうんですよね。
でも継続するとお客さんは来なくなるし、自分も疲れてくるだろうなというのは感じていて…
なので、週末の間借りカフェも『続ける』ということをテーマにやっていました。
お客さんが来ても来なくてもひたすらに『続ける』 それを毎週日曜やっていました」
酒井「その時は、お客さんは来てくれていたんですか?」
「いや、最初は全然来なかったですね。1日で2人という時もありました。
でも場所を貸してくれていたオーナーさんが毎回お客さんを連れて来てくれたり、ありがたかったですね。苦しい時もあったけど、しばらくするとコンスタントにお客様が来てくれるようになったんですよね。
『続ける』って『認知される』という事なんだな、と思いました。
そしてにゃらやを開いたときも一年間、体調不良とかがない限り絶対休まず続けようと思ってて…
お店に行ったのに『やったなかった時のガッカリ感』って大きいじゃないですか…」
「その後、平日の仕事を転職したタイミングで、カフェの営業を週1から月1に変更したんですが、そしたら月1がちょうど良かったんですよね、
趣味のスノーボードや書道、山登りなども再開できたり」
酒井「その間借りカフェは、どれくらいやっていたんですか?」
「途中でコロナになって休んだ時期もあったんですけど、4年くらいかな?
2016年6月〜2020年1月くらいまでやってましたね!
4年やってたら常連さんもついて、月1の開催を楽しみに来てくれる家族もいらっしゃいました。そういう方の存在は、どこかで自分の自信になっていましたね」
「ただコロナになってからは、自分のお店ではなく借りているお店だったこともあり、もしコロナになったら、貸してくださっている方にも迷惑をかけてしまう…と思ってお店を休むことにしたんです。
でも長い間お店をやらないのもどうしよう…と悩んでいるうちに、紆余曲折あり自分のお店を開くことになりました」
~後編に続く~
後編は「にゃらや」さんが、白楽にやって来てからのお話です!
お楽しみに〜
まずは恒例の『関係ない質問』をどうぞ!